ビアトリクス・ポターとナショナル・トラスト |
Beatrix Potter 1866-1943 ロンドン生まれ |
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ピーター・ラビットで有名なビアトリクスの素顔と、ナショナル・トラスト運動に積極的に関わっていたビアトリクスの生涯を紹介したい。ビアトリクスが生まれた19世紀半ばのイギリスは、女性が独立して成功者になることを歓迎されず、女性が職業を持つことはない時代であった。苦労がしのばれるそんな時代に育ったビアトリクスの幼少期からの人生を辿ってみたい。
両親はお金持ち。朝、洗い立ての糊のきいたワンピースを着せられ「シマウマの脚みたいにぐるぐると横しま模様のある綿のストッキング」をはかされ、午後には乳母に手を引かれて公園へ散歩、とても贅沢な育てられ方をした。学校へは行かず自宅で家庭教師から学ぶ。「本当に良かった!もし通っていたら生まれつきさずかった能力の一部をつぶされていたかもしれないから」と後年回想している。しかし母親から同じ年ごろの友だちとつきあうことは絶対に許されなかった。ばい菌がうつるといけないという理由で! 真の友情を分かち合える友人をつくることはなかった。父親は政治家や芸術家に友人知人が多く、いろんな大人たちと触れて育った。エリザベス・ギャスケル ジョン・ブライト ジョン・エヴァレット・ミレー。ミレーのアトリエによく行っていた。
ビアトリクス19才。家庭教師のアニーも結婚して去っていった。同世代の友だちもいない。日記には「生活が耐えられないほど単調でたいくつで希望がない」と記す。それでよく病気になった。リューマチ、このときの円形脱毛の跡が一生残る。心臓発作を起こし憂鬱な気持ちが続くが、素描と水彩画を描き続けることで克服していく。
ポター一家は毎年春、復活祭のころ一か月ロンドンを離れて、南岸やスコットランドへ行った。避暑で湖水地方へも。何度も訪ねるうちにその田園地帯への愛着を次第に深めていった。自由と美、野生の花やキノコ、動物がいる森や川、素晴らしいフェアリーランド、妖精の国。スケッチをし絵具で描き、田舎で暮らしたいという気持ちが募ってきた。画家と作家が成長しはじめてきたのである。
家庭教師だったアニーが結婚してムーア夫人へ。ムーア夫人のところへよく訪れ、親しく交わり続けていた。子供たちが大喜びで迎えた。ハツカネズミやウサギなどのお土産を持っていったからである。子供たちに手紙を送っていて、彼らはその手紙を大事にとっておいた。ビアトリクスには、自分のお話を本にしてだせるのではなかという新しい考えが生まれていった。カラーの挿絵。湖水地方で知り合って親しくしていた牧師のローンズリーさん(ナショナル・トラスト創設者の一人)に手伝ってもらい『ピーター・ラビットのおはなし』の自費出版へと至った。人気抜群。そして出版社からの出版へとこぎつけ、1902年、堂々たる絵本作家デビューとなった。
その後、自分のものと呼べる場所を持ち田舎に根を下ろして暮らしたいという願望が芽生えてきて、湖水地方のソーリー村にヒル・トップ農場を買うことにした。安らぎとなぐさめを与えてくれる場所となり、もっともプライベートな部分を表現できる場所だった。そして湖水地方で知り合った男性ウィリアム・ヒーリスと結婚、ビアトリクス46才。ビアトリクスはその後も農場を買っていくようになる。ローンズリー牧師の助言にしたがって、昔から飼育されてきたのに減ってきていたハードウィック種の羊を飼育することにした。農場は軌道に乗り始めてきて悲しみを克服できる場所になっていき、自分が農場主としてそこの生活にぴったり適合することを発見する。40代後半からは絵筆を捨て、一農婦として羊を育てることに情熱を燃やしていった。死ぬまで湖水地方の土地を買い続け、それらをすべて遺言でナショナル・トラストに寄贈。今、湖水地方が100年前と変わらない美しさを保っているのはビアトリクスとナショナル・トラストに負うところが大きい。
ビアトリクスはナショナル・トラストの熱心で重要な支援者であった。自然環境と歴史的遺産の保護活動をするトラストの精神を積極的に応援、匿名の寄付を含め多大な経済的援助を行った。自動車の利用が増えて、湖水地方にも観光客が楽に入れるようになり、これまでの静けさと美しさが無思慮な開発によっておびやかされはじめてきた頃、新たな観光事業の拡大にビアトリクスは厳しい監視の目をひからせた。既に何年も前から自分のお金で少しずつ買っていた土地、自分自身の楽しみから、やがてナショナル・トラストにいずれ寄付するつもりで購入、すっかり大地主になっていた。
ナショナル・トラストについて軽く触れておきたい。1895年、社会改革者オクタビア・ヒル、弁護士ロバート・ハンター、牧師ハードウィック・ローンズリーの3人が英国ナショナル・トラストを創設。ナショナルというのは、この場合「国家の」という意味ではなく「国民の」という意味である。国民一人ひとりの気持ちと信頼をつなげて、自然と歴史的景観を守っていこうというのが3人の姿勢。野原(オープン・スペース)や森こそ人々にとって最も大切なもの、それらをみんなのために、みんなの力で守ろうという英国で誕生した市民運動である。オクタビア・ヒルは、プレゼントに何が欲しいと聞かれると、いつも「いつまでも走りまわれる原っぱ」と小さいころから答えていた。発会式のローンズリー牧師のスピーチ「人々は自然のままの絵という偉大なナショナル・ギャラリーを作り上げ、美しいものに対する眠っている感覚を呼びさまされる。いまこの『ナショナル・トラスト』という団体が行動を起こさなければ、素晴らしいイギリスの自然は取り返しのつかないほど破壊されるだろう」
「ヒル・トップを訪れる観光バスの数は、ある時点から制限された。特に日本人のツアーバスが多すぎる、これでは大切な文化遺産の保存が難しくなるというのが制限の理由だった。ポターの家と、その辺り一帯の所有者である英国ナショナル・トラストの決定。湖水地方が鉄道をシャットアウトし、大型バスを制限したことであの自然の美しさとそこで暮らす人々に生活が守られている。世界遺産は貴重な人類の財産であり、守っていく責任が私たちにはある。」(『ナショナル・トラストを歩く』横川節子)
1943年12月22日、ビアトリクス死去。遺骨は、忠実な羊飼いによってソーリー村の農場内のさる場所に散骨された。「散骨した場所は絶対秘密にしておくこと」と言い残す。かつて「私は〈見える目〉を持っていることを感謝します。たとえベッドにふせていても、老いた自分の足でも二度と行けない高原やでこぼこ道を、足下の石や花、ぬかるみやワタスゲなどを心の目で見ながら、一歩ずつ歩いていける、ということです」と書いたことがある。その風景は、この不屈の女性の精神に、なぐさめと安らぎを与えていたに違いない。
今では世界中で何百万もの人たちがビアトリクスの絵本を愛読している。その需要は年々増えラテン語にも訳されている。ビアトリクスは今も、作家として語りつくせない喜びを人々に与え続けているが、そればかりではなく田園生活者として、農場主としてもまた、人々に記憶されている。遺書により、620万平方メートルもの土地が、保護と維持のためナショナル・トラストに残された。ピーター・ラビットの温かい絵に触れるたびに、そして湖水地方の美しい風景を見る幸運に遭遇するたびに、幼子から大人までビアトリクスへの感謝の気持ちでいっぱいになることであろう。
参考図書 『素顔のビアトリクス・ポター』エリザベス・バカン著 『羊飼いの暮らし』ジェームズ・リーバンクス著 『ナショナル・トラストを歩く』横川節子著
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